日本人は農耕民族といわれています。古来より蓄財に励み、保守的で組織を重んじる集団と思われているようです。しかしそんな日本人像を覆す証言が500
年前に存在します。
戦国時代に渡来したポルトガルの宣教師フランシスコ=ザビエルやルイス=フロイスたちです。彼らの残した手記には次のことが書かれていました。「日本の人々は肉体は強健で、武器を尊重する。武士も平民もみな年齢が1
4 歳に達すると、大刀と小刀を帯びる。彼らは全財産を衣服や武器と家来のために使用し、財を蓄えることをしない」。当時の日本人は、現代の日本人像とは似ても似つかないベンチャー精神にあふれていました。この証言を見る限り、古来より日本人が保守的で組織を重んじる民族であると考えるのは誤りです。むしろきわめて環境適応能力に優れた民族と見るほうが適切でしょう。長い間鎖国で外国から閉ざされていたにも関わらず、明治維新の文明開化は、瞬く間に日本人の隅々まで広がりました。あれほど天皇制のもとで大和魂を唱えていた日本人が、太平洋戦争に負けると、すぐにアメリカナイズされたのです。現在の日本人像は、戦後の官庁主導のもと、企業組織に忠誠をつくしながら高度成長を遂げた日本人のイメージが残っているにすぎません。長い歴史の中で、いくつもの社会経済のシステムが生成され、そして崩壊していきました。社会経済のシステムが形成され完成に近づくと、人々は組織に依存するほうが生きやすいと感じるのです。そしてシステムが崩壊しはじめると、組織への依存度を急激に下げる。日本人は本来持っている環境適応能力で、有利な方向性を素早く選択して行動する民族なのです。社会経済システムの生成と崩壊の振り子の中で、日本人は別の民族であるかのごとく個人主義者と全体主義者を使い分けて変身してきたのです。歴史は繰り返されるといいます。しかしそれは社会システムの生成と崩壊の中で、同じタイプの時代と人が時を隔てて出現するのです。人は長い時間のうちに個人と組織の間で行ったり来たり揺れ動いているのです。
これを図にしてみましょう。人の組織への指向性と個人への指向性を対に縦軸をとり、人々の能動性と受動性を対に横軸をとり、4
つのカテゴリーを作ります(図1 )。
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| 【図1】 |
この図の横軸にある、人々の能動性と受動性について説明しましょう。社会システムが形成されると、人々は新しい社会の建設を夢見て能動的に行動します。いったん社会システムが成熟し、衰退しはじめると、人々は守りに入り、受動的になります。そして一時代の社会システムが崩壊すると、人は個人志向に走ります。しかしその中で新しい価値を見い出した者がまた新しい組織をつくり始め、いくつもの支流が合わさり、大河となって次の時代を形成していきます。そしてこの社会システムの変化は、根本的には経済システムに根ざしています。衣食住という根本的な人間の営み、すなわち経済がその時代にあった生活を人々に求め、その時代にあった為政者を出すのです。人は長い時間のうちに個人と組織の間で揺れ動く。いつの時代でも、体制が大幅に変わるときは、その直前にに必ず大飢饉や大恐慌が起こります。恐慌は古い経済システムの脱皮のときに起こります。古い経済システムが成り立たなくなるから、どんなに強大な権力もたちまち瓦解してしまうのです。
石器時代、狩りを中心に家族を単位に生活を営んでいた日本人は、やがて群をなし、縄文時代になり、村ができます。人々は稲作を覚え、村は大きくなり、弥生時代に入りました。村は争いや話し合いで統廃合され、さらに拡大して小国家ができました。そしてその中で最も力の持った小国家が日本を征服し、大和朝廷が誕生したのです。飛鳥、奈良時代を経て、平安京が京都につくられました。この課程で天皇、貴族を中心に、租庸調という貨幣ぬきの税(米、労働、物)で民を統治する荘園制度ができあがりました。しかしやがて貨幣制度が普及してくると(図2
参照)、市ができ、そこに人が集まり、貨幣でのものの売買が増加してくると、貴族がもの(米、労働、物)の独占と支配ができなくなってきました。そして直接荘園の番人である、武力を持った地頭と呼ばれる武士が、荘園内の税を横取りしはじめ力をつけていきました。鎌倉、室町幕府は武士に支えられながら、鎌倉幕府が誕生したのです。幕府は貴族の荘園の利権を武士から守る役割を朝廷から与えられていました。にもかかわらず地方武士と貴族は荘園の利権をめぐり、争いが増加するようになります。鎌倉幕府が倒れ、室町幕府になり、南北朝で争ったのも、根本的には荘園の利権をめぐる貴族と武士の対立です。室町後期にはあくまで貴族側の利権を守ろうとする幕府に失望し、地方武士(地頭)が独立性を高めていった時代です。現代は室町後期に似ているといわれています。高度成長期に国家の優遇政策のもとで肥大化した銀行やゼネコンを、政府はこれまで国家を滅ぼしかねない巨額な税金を使ってあくまで守ろうとしてきました。それはあたかも力を失いつつある貴族の荘園を守ることにこだわった室町幕府のようです。話を元に戻しましょう。
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地方武士はにわかに独立性を強めていき、大名が各地に出現するようになりました。そして戦国時代最も傑出した大名、織田信長により、全国は統一されていきました。彼がその時代で傑出できた最大の理由は、新しい時代のビジョンを明確に持っていたことだと思います。戦いにおいても為政においても伝統的なものにとらわれず、信長は常に新しい手法と価値を生み出していきました。新しいビジョンが明確でなければ新しい価値はもちろん、手法も生み出すことはできません。鉄砲の活用、秀吉など最下層の人材の登用、徹底した実力主義的組織活用や国家統一に最も邪魔な寺社の破壊は、当時、身内や部下からも頑強な抵抗にあっていたことでしょう。明智光秀に暗殺されたのも、古い時代の最後の断末魔の抵抗にあったと見ることができます。そしてその跡を継いだ秀吉は近代的国家統一を達成します。それを引き継ぐ徳川家康はその社会システムをうまく活用し、社会に朱子学や儒学の思想を導入し、士農工商すみずみまでその思想を浸透させ、安定的な社会体制をつくりました。そのため豊臣時代から元禄期にかけて4
0 %もGNP (総石高)が増加しました。しかし元禄以降その経済体制にもかげりが出はじめました。年貢という荘園制度の変形から、工・商業の発達というマニュファクチュアへの経済システムの変化に徳川幕府が対応しきれなかったのです。徳川吉宗、水野忠邦、松平定信らの改革の努力もむなしく幕末へと向かいます。最後の将軍徳川慶喜は古い体制で新しい社会をつくろうと、海外へ視察団を派遣しましたが果たせず、明治維新となりました。いつの時代でも古い体制の中にいるトップや中心にいる人々の中に、新しい時代の変化に必死で対応しようとする人が出てきますが、必ず組織の硬直に阻まれ、組織崩壊を防ぐことができないのは世の常のようです。
明治政府のもと、軽工業が発展し、重工業が生まれました。しかしこの経済体制も1 9 2 9年の大恐慌で行き詰まりました。それを打破したのは満州、台湾、韓国などの併合などによる植民地政策です。この誤った政策が第2
次世界大戦を引き起こし、敗戦という結果となり、米国の占領下に置かれることになりました。しかし朝鮮戦争特需をきっかけに重化学工業を中心に高度成長がはじまり、日本は奇跡的な経済成長を遂げます。1
9 8 0 年代に入ると経済成長も成熟期に入り、円高不況など経済は行き詰まりましたが、企業はこぞって土地や株の値上がり利益でそれを補おうとし、バブルが起こり、経済は過熱しました。そしてバブル崩壊とともに戦後最大の大不況が今日まで続いているのです。
いかなる景気浮揚策もまったく効果が出ておりません。なぜ従来の景気浮揚策はまったく通用しないのか。消費者市場が変化したからです。まず戦後の混乱が落ち着いた昭和3
0年代は生活必需品の普及が始まった時代でした。「三種の神器」といわれる洗濯機、冷蔵庫、テレビを多くの国民が競って買いました。その後、さらに豊かな暮らしを求めて自家用車、住宅、マンションブームが始まり、高度成長の終焉とともに生活に娯楽性を求めるようになり、海外旅行などのレジャーブーム、業界が始まって1
0 年足らずで1 兆円市場に成長したテレビゲームブームが起こりました。そしてバブル期へと至ります。日本経済は繁栄のピークに達し、土地は高騰し、企業は土地を担保に銀行から融資を受け、ルーズな経営を行っていました。日本全体が安直な金儲けと消費に走り、ついに破綻しました。まさに戦後経済メカニズムの成熟期を経過した後に来る必然的な終焉といえるでしょう。多くの人が、次に何をなすべきかわからず、企業は容赦ないリストラを行い、政府同様目先の解決策に翻弄されるだけというのが現状です。
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